2022.04.04 Updated by T-SANGU


I Surrender
(人生を変えた音楽)


■Introduction
月刊明星'74「月刊明星」、「山口百恵」・・・あの当時の自分にとって、超重要なキラーワードだったと思う。小学校低学年(1973~74年頃)だったな。当時世間では「山口百恵」よりも 同じ中三トリオの「桜田淳子」「森昌子」の方が人気を博していた。(あとあとの山口百恵の活躍からすれば信じられないが・・・)アイドル人気に支えられていた『月刊明星』は 僕ら小学校低学年の年代でもその存在を知られていて、購入し手に入れる事もまれでは無くなっていた。そんな中、私の目には「桜田淳子」よりも「山口百恵」の方が 輝いて見えていた。決して美人でもなければ可愛いわけでもない。でも、何かしらのカリスマ性というか目が離せない感じを受けていたと記憶している。紹介している通り、 世間では「桜田淳子」がアイドルとして絶対的存在で注目を集めている中で、私の目は世間とは違ったところを見ていたんだなと当時を回顧する。不思議な感覚だが、 私の目はこの頃から周りの動きとは一線を画していたんだなと思う。私本人からすれば普通の思いで特別ではなかったんだけどな。
その後、小学校のフォークダンスでビートルズと出会い、家に帰って兄に聞いてみると「ビートルズはお前でも知ってる曲がいくつもあるぞ。」と言われた。有名なところでは EDWIN(ジーンズ)のCMで"She Loves You”が使われていたかな。(ちなみにフォークダンスで使った曲は"Ob-La-Di Ob-La-Da"だった。) これをキッカケにビートルズにはまって行くと 同時に音楽に対して前のめりになっていったような気がする。
「山口百恵」を皮切りに「BEATLES」「石野真子」「チューリップ」「WHITESNAKE」「柏原芳恵」「SHY」「西田ひかる」と・・・国内外問わず色々とはまってきた。絶えず音楽を 聴きながら過ごしてきたので、あの頃の思い出にはこの曲と言う感じで、思い出に音楽がオーバーラップしているように感じる。
山口百恵 Beatles 石野真子 チューリップ Whitesnake 柏原芳恵 SHY 西田ひかる
同時に、コレクションも徐々にその数を増やしてきた。最初に買ったシングルレコードは『愛に走って/山口百恵』、洋楽なら『Let It Be/BEATLES』、 アルバムなら『The Collection of Beatles Oldies/BEATLES (下右)』だったなぁ。(日本盤のアルバムは・・・結構後の話になるが『栄光への脱出/アリス』 だったような気がする・・・。記憶が明確ではないな。)
愛に走って Let It Be A Collection of Beatles Oldies
そう言えば、従兄ところからコッソリ数枚のレコードを拝借してきた。記憶に残っているのが以下のアイテム。(両サイドを残して回収されてしまうが・・・)  今思えばもっと色々あったんじゃないかな。(残念) しかし、後々、一番右側のレコードが私にとって大きな一枚に思える日がやって来るとは、その当時は気づいてなかった。
夜をぶっとばせ! ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ! ビートルズ №5 Let It Be オペラ座の夜 奇想天外破廉恥集団りさいたる
こんなところから私の音楽ライフがスタートした。としておこう。
■"としごろ"よりも"青い果実"、そして『顔で笑って』
記憶が不確かな部分があるので、色々と振り返ってみるとタイミング的にココだ!と言う事がよくわかった。時系列的に事柄を並べてみよう。
顔で笑って  1973年 5月21日 シングル"としごろ"でデビュー
  1973年 9月 1日 シングル"青い果実"リリース
  1973年10月 5日 TBS系ドラマ『顔で笑って』スタート
               (1974年 3月29日までの全26話)
あの当時、ファンレターを書いた記憶があり、その中で"『顔で笑って』を見てます"と言うフレーズを書いた。一方で、"山口百恵"との出会いのキッカケは多分『月刊明星』 だったように思える。となると、"青い果実"リリース後、『顔で笑って』の最初の放送までに"山口百恵"を意識したんだなと思われる・・・。(遠い昔の話・・・)
Best Hit 山口百恵『顔で笑って』『赤い迷路』『赤い疑惑』『赤い運命』『赤い衝撃』『野菊の墓』・・・と歌とともにドラマでも活躍していた姿を目に焼き付けるかの如く見入っていた。 が、しかし、悲しい事に状況が一変してしまう。
1976年6月21日、シングル"横須賀ストーリー"のリリースだ。この出来事で山口百恵は大きく変貌してしまい、それまで大好きだった山口百恵の姿は無くなってしまっていた。 宇崎竜童×阿木燿子と言う組み合わせでそこから新たな山口百恵が作り上げられていき、世間では絶対的な人気となっていった。そこからはご存知の通りだが、 私にとっては遠くへ行ってしまったような気がした。久々にテレビで見た姿は"イミテーションゴールド"を歌う姿だったが、ガッカリしたことを覚えている。 救いだったのは"夢先案内人"や"乙女座 宮"のようなそれまでの山口百恵を感じさせる曲がいくつかはあったと言うあたりだろうか。結局、山口百恵のファンだと思っていたのは 1973年後半から1976年の前半までの3年間だったんだな。いや、その時期の山口百恵は今でも好きですが・・・。
そのまま、引退・結婚と言う流れになったが、さよならコンサートで歌われたデビュー曲"としごろ"だったが、歌がうまくなった山口百恵の歌う"としごろ"には 「そうじゃないんだよなぁ~」と思った。
■あまり前のめりでは無かった"Let It Be" やっぱり欲しかったのは「ロック」な彼ら
All My Lovong オリジナルAll My Loving New[Introduction]で書いた通り突然Beatlesの存在を知ったが、さすがに小学校3年生のこずかいではLPレコード(当時¥2,500)を購入するには高いハードルがあった。 そこで仕方なくシングルレコード(当時¥500)を買う事を考えた。「どのシングルを買うのか?」と言う事をテーマに検討を重ねていたが、1975/76年当時、beatlesのシングル盤は ジャケットを大きく変えてしまってほとんどがオリジナルでは無くなっていたんだよな。(例で"All My Loving"を並べたが、左が日本盤オリジナルジャケット、右が日本盤統一 ジャケット)その中で比較的発売が新しい"Let It Be"はオリジナルジャケットで手に入るとして、結局そこに落ち着いた。(兄の圧力もあったような気がする・・・。)  が、しかし、正直なところ"Let It Be"があまり好きじゃない。(名曲であることは認めるがっ) と言うかそもそも後期のBeatles(1967年以降)が好きじゃない。1964年を中心とした Rockを前提とした前期が好きだったので、そのへんのシングル盤が欲しかったと言うのが正直な所だ。結局、その後に兄が『The Beatles Collection of Oldies』(下)を買ってくれた。
The Beatles Collection Of Oldies Side-A
 01. She Loves You
 02. From Me To You
 03. We Can Work It Out
 04. Help !
 05. Michelle
 06. Yesterday
 07. I Feel Fine
 08. Yellow Submarine
Side-B
 01. Can't Buy Me Love
 02. Bad Boy
 03. Day Tripper
 04. A Hard Day's Night
 05. Ticket To Ride
 06. Paperback Writer
 07. Eleanor Rigby
 08. I Want To Hold Your Hand
Wings Over Americaその後、兄が友人から「ウイングスUSAライブ!!/Wings Over America」を借りてきた。3枚組LPと言うことでビックリした記憶がある。到底、小学生の私には手が出ない シロモノではあるが、1枚目の最初から6サイドの塩ピ盤からは夢のような世界が広がっていた。「これがロックなんだ!」って。と、同時にPaulはビートルズをもっと ロックなバンドにしたかったに違いないと確信した。(とは言っても、バンドをロックから離れるキッカケを作ったのはPaulが作った"Yesterday"だったんだけどな。) このライブは"Venus And Mars"から始まるステージ上のWings Worldが家にいて味わえるという見事なアイテムで奇しくも"Yesterday"をはじめ"The Long And Winding Road" などのBEATLESナンバーまで入っているというオマケ付きでワクワクした記憶がある。
今では3枚組LPの他、3枚組カラーLP、3CD+1DVDデラックスボックスセット、2枚組紙ジャケCD、怪しい廉価盤・・・など様々なフォーマットで入手することができている。 大人って怖いなぁ・・・。
Wings Over America - 3 Color LP Wings Over America - DX Edition 廉価盤
■ドラマ「死人狩り(しびとがり)」(1978年版)
微笑みの法則ココでドラマの話をしたい訳じゃない。 まぁ、ドラマの内容は全く記憶にも残っていないし・・・。ただ覚えているのは、" 雨に泣いている・・・"と言う曲だけだった。エンディングになるとこの曲とともに大きめの字でロールが流れていて、そこから"雨に泣いている・・・ 柳ジョージ&レイニーウッド"だと言う文字が読み取れた。まぁ、この時点では柳ジョージなる人がどのような人で、どんな来歴なのか、どのような人脈なのかは全然しらないが、 雑誌などでは"日本のエリック・クラプトン"とか称されていて、ストラトキャスターを持った彼の姿を見ると、なんとなく言われているのも分からないでもないなと思ったが、 単に同じギターを持ったオッサンじゃないかとも思えた。しかし、個人的には初めてリズム&ブルースに触れたような気がした。アイドルや歌謡曲ばかり聞いていた自分にとって 斬新で、その後に自分の音楽ワールドが広がっていく予兆だったのかも知れない。と、今になって思う。
1979年、化粧品のCM戦争で資生堂のCMを担当し"微笑みの法則~スマイル・オン。ミー"(左)をスマッシュヒットさせ、世の中にその存在を知らしめたように感じた。 そしてその数年後に驚く発見をしてしまい、色々な点が線となって繋がることにこのころは全く気づくこともなかった。
■テレビドラマから飛び出してきたアイドル
熱愛一家LOVE古くは「となりの真理ちゃん」の天地真理、「時間ですよ!」の浅田美代子となるのだろうけど、私とっては『熱愛一家LOVE』(1979年2月14日~8月8日 水曜夜9時)の"みどり"役で 登場した石野真子だった。とってもキュートで八重歯が印象的な女の子。スター誕生で「530点」(当時の合格点が250点、審査員の点数だけで250点つけられていたと記憶している。) を獲得して1978年に阿久悠+吉田拓郎の「狼なんか怖くない」でデビュー)1979年の"私の首領","失恋記念日"で思いっきり気になっていた彼女の事が、このドラマで一気に爆発した 感じがした。毎週決まった時間帯にテレビで彼女の姿がみれるというのも嬉しかった記憶がある。また、ちょうど番組も終了した頃に放送された『24時間テレビ 愛は地球を救う2』 に出演して24時間テレビに出まくり(正しくは、様々なコーナーがあって出ずっぱりではなかったが・・・)と言う嬉しく夜も寝ずに見ていた記憶があるなぁ。加えて、TBSラジオでは 『ジェミニ・ミュージックパートナー~真子のワンダーランド』がスタートし、立て続けに違った姿の石野真子が垣間見れてより一層ファン心に火がついた。
しかし、N氏との結婚で1981年20歳で芸能界を早々に引退。悲しかった・・・。
■軽音楽をあなたに、FMリクエストアワー(新潟)
人づてで音楽を手に入れることから、自分で音楽を探すという感じに変わって行った。新潟だったので当時FM局はFM-NHKのみ。でも、その1局の中から自分に合った番組を 探してみた。
夕方4時から始まる「軽音楽をあなたに」と週末の土曜昼間3時からの「FMリクエストアワー」だった。そろそろ洋楽にも興味を持ち始めていた頃だったのでアルバム1枚丸がけの 「軽音楽をあなたに」は神のような番組だった。この番組聞いてレコードを買わなくなったと言う人は続出するんじゃないかな?と思っていたが、そういうことではなかったような 気がする。レコードを買うのは好きなアーティストと言う感覚から、なんでも聞いてイイものは買うという時代に入り始めていたのかもしれないな。 売れる(た)ものを聞くのではなく、売れそうなものと良さそうなものを聞くと言う感覚だ。また、年末には「軽音楽スペシャル」と題して、一週間2時間くらいづつ1年間を 振り返る番組も放送され、洋楽に触れる機会が多くなっていた自分にはとても重要な番組だった。
一方で対極な感じがする人気曲/人気アーティストをかけまくる「FMリクエストアワー」だが、実は当時の合田アナウンサーの力かはわからないが、人気の大小にかかわらず 色々とかけていた感覚が強い。3時間の番組は3部構成で、「国内曲」「海外曲」「特集/スタジオライブ」と言う構成で長丁場だがリスナーを楽しませてくれる番組だった。 今思えば、まだブレイクしてないアルフィーも何度かスタジオでライブをやってたっけな。
■普通ならチューリップからビートルズ、私はビートルズからチューリップ
Tulip in 80's JAM at 西武球場日本人であれば、日本のバンドをキッカケに海外のバンド・・・と広がって行くような気がするが、私の場合はビートルズをかけるラジオ番組で知ることとなった。 ラジオのパーソナリティが財津和夫で、ビートルズを流すバンドだったが、途中、「私のバンドの曲も」と言って2~3曲かけた事がキッカケでチューリップーを 知るようになった。
決め手は1979年7月22日に行われた『80's JAM OVER JAPAN』での"Give me a chance"と言う歌をうたった彼らを映したTV放送だった。(右写真) "虹とスニーカーの頃"の リリースが1979年7月5日だったのでイベントはリリース直後で売れる気配があったというあたりだろう。この年はニューミュージック元年のような年で、満を持して 人気が再燃したと言う感じの頃だったと思われる。
そういえば、あの当時、「ザ・ベストテン」などの番組にエントリしてる割に登場がなかった。しかし、それまでのバンドは映像がそこそこ残っている様にテレビ出演 していたようだが・・・。いざ、テレビ局のスタジオで楽器を持ち込んで演奏となるとハードルが高かったのかなぁ~と今になって思う。
■CMから突然現れるアイドルもいた
コルゲントローチコルゲントローチのCMで突如現れたアイドル、柏原よしえ。左のコルゲントローチをクリックするとそのCMを見ることができる。ものすごい衝撃が走った。 当時、デビュー曲"No.1"を「スター誕生!」で歌っている姿を見たときは何も思わない以上に、好きになることはないなと思っていた。 同時期に"スタア"でデビューした甲斐智恵美の可愛さの方が気になっていた。 そんな状態の中で現れたこのCM。「本当にあの"柏原よしえ"なのか?!」と思い、CMが流れる度に確認していた。「いやぁ、間違いないな・・・」とビックリしていた。 (ちょっと感動) ハロー・グッバイ
♪ 好き、好き 好き 好き、 透き通った 時間の中で~
あの鼻にかかった独特の歌声で歌う"第二章・くちづけ"(1980年10月25日発売、三枚目シングル)、曲全体も、フレーズも、思いっきり印象的で思わず"好き"になり、 ファンになってしまった。
どうもチャートの最前線にいるアイドルよりは若干伸び悩み目のアイドルを好きになってしまうんだと感じていたが、1981年10月15日発売"ハロー・グッバイ"で オリコンチャート最高6位と言うヒット曲が出た。何か嬉しい感情が湧いてきた。 もともとこの"ハロー・グッバイ"と言う曲はアグネス・チャンが1975年12月にリリースした "冬の日の帰り道"と言うシングルの"B面"に取り上げられていた曲だったのだ。(ちょっとビックリ!) そして、"ハロー・グッバイ"以降は"春なのに"が大ヒットし、 落ち着いた曲が多くなっていきアルバム曲も気になる曲が増えていった。個人的にはアルバム「夢模様」が大好きになり、私の家では一時期かなりのヘヴィローテーションで かかっていた。
■人生を変えた "I Surrender" (日本発売:1981年3月)の登場!
I Surremderそれまで私にとっての『Hard Rock/Heavy Metal』は兄の友人からもらった1本のカセットテープだけで、そこには10曲ほど録音されていたが、 「これがハードロックかぁ~。一生聞かないような気がするなぁ~」と言ってた様な気がする。1979年くらいだったと思う。不思議な感覚だが、当時QUEENに対しては 悪いイメージはなかった。なんかまるでBEATLESがロックではなくBEATLESと言う1つのジャンルと思うように、 "QUEENはQUEEN"だったように感じていた。それは、決してHard Rockだとは思ってなく、 問題なく聞いていた記憶がある。従兄から借りたLPのお陰なのかも知れないが・・・。
そんな感じで突然耳にした曲によって人生までをも変えてしまうと言う曲が登場するのである。
"I Surrender/RAINBOW"の登場である(左掲載は輸入盤シングル、当時日本では幻のシングル盤だった・・・)。Ritche Blackmore率いるバンドがそれまでの路線と違った 方向性でリリースした曲で、(Hard Rock系の)巷では賛否両論と言う感じだったらしいが、それまでのRAINBOWをこの時点では知らない私にとってはどうでもイイことで、 "I Surrender"と言う曲で前のめりになったんだったな。
■私にとっての音楽の教科書『MUSIC LIFE』
MUSIC LIFE 1981年4月号 目次MUSIC LIFE 1981年4月 表紙1981年4月号(3月5日発売)が最初に買った「MUSIC LIFE」。(右写真) ちゃんとQUEENが表紙を飾っているあたりが「さすがMUSIC LIFE!」と言ったところだろうな。 目次の文字が小さく見にくいが"リッチー・ブラックモア"の文字もあるし、当時良く比較されていた"マイケル・シェンカー"の文字も見える。すなわち、この「MUSIC LIFE」の 存在が音楽の世界を100倍にも1,000倍にもしてくれる教科書だったのだ。「ロック・ジェネレーションのための」と言う文字列もあり、Hard Rock/Heavy Metal専門誌ではなく "広く深く"ロック全般を語っているので、ある意味楽しく感じていた。私は新潟の田舎に住んでいたのでライブを見る機会がなかったが、『MUSIC LIFE』を見ることによって、 そのライブでの姿を感じ取れていたし、海外のイベントの様子まで伝えてくれていて、毎月何を教えてくれるのか楽しみだった。ただ、80年代はHard Rock/Heavy Metal人気が 結構高かったので、扱われる紙面が多かったように思えるし、後に姉妹誌『Burrn!』でHard Rock/Heavy Metalを扱うようになると『MUSIC LIFE』の人気も徐々に衰退していった ように思えた。とても残念だった・・・。
   ★当時リリースされ、必死に聞いていたLP達
アイ・サレンダー(アルバム) 神 ライブ・・・イン・ザ・ハート・オブ・ザ・シティ ヘヴン・アンド・ヘル スペルバウンド 悪魔の招待状 蠍魔宮
「一生、Hard Rockなんか聞くもんか!」と思っていたハズなのに、既に生活の中心になっていた。しかし、この頃のアルバムって名盤ばかりだなぁ。 すごい!今でも語られるようなアルバムが多かったんだなぁ。
■"フィルムコンサート"と言う地方(新潟)では夢のようなイベント
Monsters of ROCK1978年にRaibowが新潟に来たと聞いているし、署名によってIron Maidenも新潟を訪れている。なぜかわからないがTOTOも新潟でライブをやった。が、全体からすれば ほんの一握りにも満たないことだ。そんな中、肌でライブを感じるひとつに"フィルムコンサート"がある。観ている側の声援はアーティストには届かないが、 アーティスト側の迫力に加え会場の盛り上がりなどは十分に感じることができる。一方で、椅子に座ったままで冷静に感じられることも違った目線が生まれ、 音楽ファンとしては嬉しいことなのかも知れないな。
Fool For Your Loving1980年、イギリスのドニントン・レーシングパークで行われた第1回「Monsters of ROCK」と言う世紀のイベントに出演したRainbow。日本では各地で当日のRainbowの演奏を 納めたフィルムによる上映会(コンサート)が開催されていた。新潟でもフィルムコンサートが開催され、彼らの雄姿を見ることができた。大画面と大音量で流れるRainbowの 姿とサウンドに圧倒され感激し、酔いしれていた・・・。 しかし、Rainbowのフィルムの前座には何本かのPVとともにWhitesnakeのワシントン公演(「Box 'O' Snakes」の DVDでも見る事ができる)も上映された。本来の目的はRainbowのハズだったのだが、Whitesnakeのフィルムの方が私の心に突き刺さった。このページの上の方で登場した "柳ジョージ"のようなRhythm&Bluesを基調としたHard Rockなんだと完全にはまってしまった。まだHard Rockを理解していると言うレベルに達していなかったので、 こういった出会いも大きかったと思う。そこからWhitesnakeの音源やらニュース、雑誌の記事などを必死に漁っていたように思える。
左の写真はヒット曲"Fool For Your Loving"のPVからのショットだが、Hard Rockの雄として風格を見せるDavid Coverdale(ex-Deep Purple)だが、 この7年後に大ブレイクするとは本人も僕らも想像出来てはいなかった。
■雑誌、フィルムコンサートの次はラジオ番組。新しい情報を得るには良かった!
   しかし、ショッキングなニュースも素早く受け取るコトになってしまった。
ロックトゥデイ(現BayFM Power Rock Today、当時ラジオ関東、現ラジオ日本 土曜深夜3時~)、ROCKUPATION(文化放送 金曜深夜 ミスDJリクエストパレード内コーナー)、 悪魔とドリミのMLロクテーション(ニッポン放送?木曜夜8時くらい?MLとはMUSIC LIFEで、悪魔は酒井康、どりみは塚越みどりと言うMUSIC LIFEのスタッフで放送していた番組。 さすがに酒井が担当してただけに、Hard Rockしかかかってなかった。)と言う番組を中心に新しい情報を得ていた。ただ、ラジオと言う性格上、雑誌よりも情報のスピードが速く、 信じられないニュースも耳にしてしまった。

突然、大森庸雄(音楽評論家、ラジオプロデューサー兼パーソナリティ)が言った。
     「オジー・オズボーン・バンドのランディ・ローズが飛行機事故で亡くなりました。」
Diary Of A MadmanBrizzard Of Ozz1982年3月19日、全米ツアー中のフロリダ州リースバーグで搭乗した小型飛行機の遊覧飛行中に墜落事故にあい、帰らぬ人となってしまった。享年25歳。

Randy Rhoads当時、(OZZY OSBOURNE BANDの前に在籍していた) QUIET RIOT時代の日本でしか発売されていない2枚のアルバムは既に廃盤で、Randyのギターを聞くには「血塗られた英雄伝説~Blizzard Of Ozz」と「Diary Of A Madman」の 2枚のアルバムしかなかったが、2枚のアルバムだけで、そのプレイの凄さを堪能することができる。ヨーロッパ的でクラシカルなプレイスタイルでバンドの色にうまく マッチしたと言える。まるで貴公子のようなそのルックスと相反する激しいプレイがなんとも魅力的で「次のアルバム」「生の姿」と日本での期待も大きく高まっていた。 そんな中での逝去の情報に世界中のHard Rockファンとともに涙した。私もその2枚のアルバムをかなり聞いたもんだなと振り返る。
Randyは生前、インタビューの中で「将来はギターヒーローになりたい。」と語っていたそうだが、この2枚のアルバムによって彼は既にギターヒーローになっていた。
Randy Rhoadsが(彼の意図によるものではないものがほとんどだが)残した音源をコレクションしているので参考まで。(随時更新中) >>こちら
■佐川急便の(当時)社長もハードロックが好きだったんだな
成毛滋 @Grecoハードロックを好きになって丁度いいころ合いで始まったラジオ番組があった。『Dr.シーゲルとイリアちゃん パープルエクスプレス』と言う番組。 イリアとはジューシーフルーツと言うバンドにいて『平成名物TV 三宅裕司のいかすバンド天国(通称:イカ天)』のバンドストッククラブで出演していた女性だが、 ポイントは"Dr.シーゲル"の方だ。成毛滋(故人)と言う人でGS時代にフィンガーズの一員として活動し、人気のテレビ番組『勝ち抜きエレキ合戦』で4週勝ち抜きグランド ・チャンピオンに、また、歴代グランド・チャンピオン大会でも優勝するほどのギターテクニシャンだ。ラジオでは、「1番線(1弦)5フレット人差し指、1番線8フレット 薬指ハンマリングオン…」という感じで解説し、早引きギタリストのフレーズをも再現して解説していた。そんな番組の提供が佐川急便。実は佐川急便の当時社長が ハードロックが好きで成毛滋ともお付き合いがあったそうだ。その関係で番組名も、"エクスプレス"のワードをつかったようだ。 ("パープル"はDEEP PURPLEかなぁ。番組内で語っていた様な気がするが、明確な記憶がない。) また、この人間関係から成毛は佐川急便のCMに曲を提供している。 "暗闇の地獄の悪魔の炎"という曲だ。 (ギター以外の楽器も成毛本人が演奏している。) 当時はこの程度の認識でしかなかったが、後々様々なつながりに気づくことになっていく・・・。
■システムコンポという機器を手に入れた!
SONY Sound Sensor SF GR-1SONY Sound Sensor SF GR-1、とても嬉しく思った。大きなスピーカーから大きな音で音楽が流れてくる。なんかすごいなーと感じていた。
Blackout実は、このコンポが届く際に予約していたLPを一緒に届けてもらった。「Blackout/SCORPIONS」だった。 ヴォーカルのクラウスが前作後に喉の治療を受けたらしく、治療後に矢が放たれたような大きな爆発力がココには封じ込まれていた。1曲目のタイトルソング"Blackout"がその象徴になっている。ここでは、PVとなった"You Give Me All I Need"に リンクを張っておきます。ミディアムなテンポの曲だが、クラウスのパワフルなボーカルを聞くことができる名曲だ。
アルバム全体としては聴き処満載で、名盤の1つに挙げてもいいくらいだ。ただ、残念なことにこの作品を最後にそれまでの"イイ意味でのマイナー路線"の曲が終了してしまったようなところだ。それまでのSCORPIONSには重要な一面だったような気がするが、 これ以降のアルバムは"垢ぬけた感"が強くなっている。とても残念でならない。そういう意味では一つの時代の完結編とも言っていいだろう。
■やっぱり、ライブは生で感じるものなんだな。
LIVE ACT TULIP 1982 We Can Fly ツアーパンフ高校生になったのでライブでも行ってやろうと思い、是非とも見たかったチューリップを「新潟県民会館大ホール」で体験。
LIVE ACT TULIP 1982 - We Can Fly Tour」 (パンフレット⇒)
いきなり新曲の"2222年ピクニック"でスタート、一通りの名曲を聞かせてもらったな。"心の旅","夢中さ君に","虹とスニーカーの頃","青春の影"・・・。しかし、それ以上に、 楽しいと言うことがなによりだった。さだまさしはライブの半分は喋りだと聞いていたが、演奏中心であろうチューリップの場合はどうなんだろう?と言う不安の中、 心配には及ばず十分に楽しめるステージングだったな。後から知ったが、昔からチューリップは楽しめるライブを実践してきたようだ。が、たぶん、このツアーでは 生ギターコーナーがなかったような気がする。うろ覚えではあるが、その後のライブレコードや翌年のライブで生ギターコーナーを見聞きして「恒例」の言葉を使っていて 疑問に思ったくらいだ。
そして、私の高校3年間は毎年チューリップの姿を新潟県民会館で見ることができた! (加えて1997年の再結成以降も新潟県民会館でチューリップを数回見ることが出来たな。)
■小林克也が「US Festival '83」を特番で紹介
US Festival 83Videoによる音楽をテレビなどで"見る"時代になり、その走りとなったテレビ番組『Best Hit USA』でビデオジョッキーとして活躍していた(る)小林克也氏が、 アナログ地上波時代に珍しく民放で洋楽の特番を放送した事があった。それがこの1983年の 「US Festival '83 総集編」だった。(左写真をクリック: Stray Cats"Rock This Town")
Apple II Computerの生みの親であるSteve Wozniakのアイディアで1980年代がより"コミュニティ指向"になるよう促し、"テクノロジー"と"ロック音楽"を 強く結び付けようと企画され1982年と1983年にカリフォルニア州サンバーナーディーノにあるグレン・ヘレン地方公園で開催されたイベントで"我々を"を 意味する"アス(us)"を冠したフェスティバルとなった。
TRIUMPH - US Festival '83 しかし、2回続けて1,200万ドル、計2,400万ドルの損失を出し、80年代を代表するようなイベントはあえなく終了することとなった。会場設営の担当となった Wozniakはスポンサー企業の看板などを一切廃し芸術性を持たせたステージ設営によるものではないかと言われている。
そして、日本の放送では Belrin、Missing Persons、Pretenders、U2、Stray Cats、Crash、Stevie Nicks、Scorpions、Van Halen が登場した。もっと登場させるべきアーティストがいたが、大人の事情で日本での放送はカットされている。
CS放送の時代になり、当時放送されていた各日の総集編やアーティスト毎など今でも興味津々に見入ってしまうマテリアルが残っている。 蛇足だが2日目のHeavy Metal Dayに出演したMotley Crueが凄い。 と言うか、ほぼアマチュアバンドのようなステージングでその後の成功と様々なギミックを持ったステージと比べるとチープで面白い。(笑える!) 一方で、日本で放送されずに 残念だったのはTriumphだろう。日本で過小評価されているのも大きなところだ。放送されていたら人気も出たんじゃないかと思ってします。個人的には好きなんだけどな・・・。
■ラジオから流れてきた衝撃の1曲
Once Bitten... Twice... SHY人生を変える曲と言うのはそうそうあるもんじゃないが、もう1曲現れた。そして、その後、ドップリはまってしまうバンドに出会うことが出来たのだ。
ラジオ関東(現ラジオ日本)の土曜深夜27時(日曜3時とも言うが)、「Rock Today」(後のBayFM"Power Rock Today"の前身番組)と言う伊藤政則がパーソナリティを務める Hard Rock専門の情報番組での出会いだった。当時、番組の中で新人を紹介するコーナーがあり、数多く当時の新人が紹介され注目のコーナーで、突然紹介された。
Take It All The Way/SHY
Brave The Stormキーボードで始まるメロディックなイントロ。これから何かが始まる予感をさせてくれる感じが私の心に刺さった。ドラマチックな展開でゾクゾクする感覚だ。 ただ、問題は新潟の片田舎ではSHYのレコードを入手するのはほぼ不可能な状態だった。高校生の私にはまだ通信販売と言う手を持ってなかった。加えて「MUSIC LIFE」に 掲載されている輸入レコードショップ(ディスクロードやキニー、シスコなど 新宿レコードは広告あったかなぁ)でもSHYのレコードを発見することが出来ず・・・。 月日だけが流れていった。1985年、彼らは2ndアルバム「Brave The Storm」 (リンク先はタイトル曲のPV。アルバム全体は右のジャケットをクリック!)をリリースするが、ようやく新宿キニーで入手する事ができた。ただ、初回盤にはTシャツが 付属していたが、この時、既に無くなっていた。店員は大きな"SHYロゴ"の付いたシャツを着ていて「最初のプレスに付いていたんだよ」と教えてくれたが、正直悔しかった。 こんな感じでSHYとの"MUSIC LIFE"をスタートさせている。その後、最初のアルバムを高田馬場にある中古レコードショップで¥12,500と言う高額で入手することができたが、 数年してCD化で値崩れを起こしたり、海外の中古レコードショップとつながるサイトを知り、多くのSHYアイテムを廉価で入手することができた。
SHYについての詳しい情報はコチラのページを是非ご覧あれ。 SHY ~Steve Harris, Forever ! Tony Mills, Thanks !~
■新潟から西武球場に駆けつける世紀のイベント「SUPER ROCK '84 in Japan」
SUPER ROCK 84 チラシ高校三年生の私に届いた突然の情報。『日本でもハードロックイベントが開催される!』 との情報。「MUSIC LIFE」でも取り上げられ、興味が徐々に高まり、 さすがに新潟から・・・とは思っていたが、絶対に後悔するだろうと思い、西武球場に参戦するためのチケットを入手した。なんと、5バンドで¥6,000!良心的な 価格設定だった。(それが呼び屋倒産の悲劇に繋がっていったのかもしれないな・・・。)
Super Rock 84 Digest Video
1984年8月12日、西武球場(ツアー最終日)  
 13:00-13:30 Anvil
 14:00-14:30 Bon Jovi
 15:00-16:00 Scorpions
 17:00-18:00 Whitesnake
 19:00-20:30 The Michael Schenker Group
おおまかな日程が上記の通りだが、各バンド名にはバンド単独のビデオ(Anvilのみリリースなし。後に映画で若干見れるが「Special Digest」の映像だ。)へのリンクを 張っているが、大分手が入ってる感じが・・・(「Special Digest」 もリリースされた)真夏の屋根なし西武球場ではダウンする人も何人か出始める。ちょうどScorpionsが登場する時間帯が辛かった。私も「ツライ」と感じていたが 気力で乗り越えた。世紀のイベントをこの目でちゃんと見ておこうと言う気持ちだった。
ライブ終了後、20時半過ぎの西武球場には心地良い風が吹いていた・・・。
■サクラ サクラ・・・、Tokyo Road それは成功への道しるべだったのではないのか?
7800°Fahrenheit1985年4月、中野サンプラザホール。前年、「SUPER ROCK '84」に出演したBON JOVIが再来日し、「7800°Fahrenheit」をひっさげ、単独公演を敢行。私は就職で 上京したてだったが、チケットを手配しライブ会場に行くことができた。 当時のライブ映像を見てわかるが当時の彼らは一生懸命だった。 自分たちがステージ上で楽しんでいるし、その雰囲気がオーディエンスをも巻き込んでイイ雰囲気のコンサートだった。途中、"Silent Night"で ミラーボールを使った演出があったが、鳥肌モノの1曲でいまだ記憶に残っている。
今思えば、この日本でのプチブレイクが1987年の世界的なブレイクに繋がって行くと思われた。ただ、1986年"Slippery When Wet Tour"のツアーオープニングが 日本武道館で行われたが、実はチケットが売れずにとりあえず 予定していた武道館の1日は行われていたが、前年の盛り上がりからすると追加公演が出るところだが、そうは行かなかった。ニューアルバムは失敗か?と思わせたが、 "You Give Love A Bad Name"および "Livin' On A Ptayer"のPVで世界的にヒットした。伴って日本でも人気が再燃し 『日本武道館 5 Days』は大盛況となった。が、 しかし、日本武道館での彼らの姿にそれまでの"一生懸命"な姿は皆無だった。「ライブを見せてやってるよ。」と言う押し売りメッセージにも感じた。 さすがにツアー疲れがあったことも否めないが、その後の道しるべとなったライブをやってきた日本で見せる姿ではなかったと思う。(さようなら・・・Bon Jovi。)
■それも1本のカセットテープから始まった。
Flower Power1985年のGWだったと思うが、とある人から白井貴子&CRAZY BOYSの「Flower Power」を録音したカセットテープを貰った。思いっきり前のめりになるわけではなかったが、 何かしらの胸騒ぎを感じるレベルだったのだ。きっとその人はヒット曲の"Chance!"が 入っているからとか、イイ曲だからと言う事で私に紹介してくれたのであろう。ありがたいことだ。このカセットテープから徐々に白井貴子&CRAZY BOYSの魅力に はまって行くことになる・・・。
Next Gate Live DVDまず最初は1985年8月の日比谷野外音楽堂でのライブだった。"Princess Tiffa"の お披露目&PV収録と言うオマケがついていたライブだった。ステージ上もオーディエンスもノリノリで、とても楽しかった記憶がある。それまで見たチューリップや Hard Rockの楽しさとはまた違った楽しさがそこにあった。また、"Make Up"と言う曲が印象的で、 どおってことの無い様な曲だが、生暖かい夏の風を浴びると思い出すような染みる歌だった。(オリジナルやそれまでのライブではアップテンポだったが、 このライブでスローバージョンを披露、ベスト盤などにもこのスローなライブバージョンが収録されている) 白井貴子はBeatlesを小さな頃から聞いていたなど "ロック少女"と言われていたと聞いているが、音楽に関して言うと、いくつか私との共通点があるような気がした。そこが刺さる一因なのかもしれないな。 そして武蔵工業大学での学園祭ライブ。凄かった。通常の会場とは違って体育館にパイプ椅子と言う会場でほぼ無秩序状態。日比谷野音のようなステージに オーディエンスが押し寄せると言う状況が体育館じゅうに発生し、身の危険を感じる学園祭ライブは正に凄まじかった。大学生(と言うか同じ世代)にはこんなに 人気があるんだなと感じられた。そして彼らのピークでもある西武球場での単独ライブが開催されることになった。86年と87年と行われたが、ビデオ化された86年が 見事なライブだった。 "Next Gate"がリリースされたタイミングとちょうど同時期でオープンエアーなイベントが "Next Gate"と言う曲にマッチしているようで感動した。
■後悔先に立たず。 あの時、見ておくべきだった・・・。
SUPER ROCK 85 in Japan1985年8月、まだフジテレビ社屋もなく更地だったお台場に特設会場を設置し開催された「SUPER ROCK '85 in Japan」。チケット代が¥9,200。前年よりも出演者が レベルダウンになったような気がするし、高額になってしまって・・・正直な所、手がでなかったというあたりだ。現地に行けたHard Rockファンの注目は 「DIO」だったはずだ。(他にEarthshaker,Foreigner,Sting,Rough Cutt,Mama's Boysが出演) また、「DIO」に加え朝方に登場した「Mama's Boys」は必見だった。 兄弟3人で結成されたバンドで、長男Pat(G)、次男John(B)、三男Tommy(Ds)といった構成だ。ライブには定評があると言う噂だった彼ら、実際にこの日の残された 映像を見るとしっかりとした演奏とバンドのバランスとがうまく絡み合って見事なステージを披露していた。(3曲ほどしか見れないが・・・) Power And Passion
「まぁ、また個別で見ることができるだろう。」と私は考えていた。しかし、Tommyは子供のころに白血病を発症し、1986年頃から入退院を繰り返すことになる。 再来日が1988年頃に"日清Power Station"で企画されていたが、Tommyの病状悪化とバンド内のゴタゴタ(ヴォーカリストの交代など)でキャンセルされた。 Tommyは一時的に復活し、新しいアルバムとライブアルバムをリリースするが、1993年に病気が再発し、翌年に骨髄移植を実施するが帰らぬ人となってしまい、 バンドは消滅。とうとう「Mama's Boys」をこの目で見ることは叶わなかった。とても悔しい。
ただ、いくつかのライブフィルムは残されているので、それでバンドとして、そしてTommyの雄姿も含めて見る事ができる。 「Live From London」での映像はほぼフルセットのライブを堪能できる。
私が収集した"Mama's Boysコレクション"についてはこちらにまとめてある。>「Mama's Boys
■プロモーターの倒産。 金返せ!
1986年1月、前年の「SUPER ROCK '85」で見る事が出来なかった「DIO」が日本武道館で単独公演を実現!という運びだった(実はウドー音楽事務所が"DIOでは客が呼べない"と プロモートを拒否している。)が、呼び屋の”音楽舎”が倒産し、あえなくキャンセル。チケット代は返金されなかった。まぁ、今更「金返せ!」と叫んでも 仕方ないが、やっぱ悔しかった思い出だ。
DIO Ticket 1986
■バンドを見る事が出来ても、メンバーが変わってる事もあるんだなぁ。(涙)
Japan Aid 2nd パンフレット1987年10月、昭和記念公園(立川)特設会場で行われたイベント「Japan Aid 2nd」。 出演者はJames Brown,DIO,George Duke,西城秀樹+Irene Cara, Quiet Riot, KUNI+Mark Slaughterなど。
一昨年の「SUPER ROCK '85」と前年のキャンセルで見れなかったDIOを見るために意気込んで立川へ向かった。しかし、GuitaristのVivian Campbellは既に脱退しており、 代わりに元GiuffriaのCraig Goldyが加入していた。悲しいことに物足りなさを覚え、残念に感じた。 一応、当時話題になってたチャリティ曲"Stars"を披露してくれたが、DIO単独の演奏でほかのバンドの 参加はなかった。まぁ、トリ前の出演だったから(セットチェンジなどを考慮して)難しかったのだろう。(DIOの次に出演したJBのライブは見ずに帰ってしまった・・・)
Looking For ActionMasqueしかし、このイベントには楽しみが他にもあった。「KUNI」の登場だ。 1985年に「Masque」でデビューしたKUNI、そのアルバムにはBilly Sheehan(Mr.Big)やFrankie Banali(故人,Quiet Riot)などの有名な名前を見ることができる。 個人的にはKal Swan(Tytan,Lion)の歌う"Restless Heart"が好きだった。 当然、KUNIのGuitarがカッコいいのは言うまでもないが、そこにKalのVocalがマッチして曲もイイ。見逃すわけもいかない名曲に仕上がっている。
ライブは2nd Albumリリース寸前でバンドも既に録音を行っているせいかバンドとしてのサウンドを確立しているように思えた。新曲も紹介されており、 Jeff Scott SotoのVocalも魅力的だった。加えて、当日にはゲストがいてMark Slaughterの姿を見ることが出来た。この時は全然しらない人だったが直後 Vinnie Vincent Invasionに加入するVocalistで、後に日本で無名・世界で有名となる人物である。 彼の発するハイトーンヴォイスも素晴らしいものだ。
この日から30年過ぎてFACEBOOKと某RockBar(後述予定)のおかげでKUNIとお友達になるが、この時は夢のような話に思えた。関係してくれた皆様、ありがとう!KUNI兄貴、 本当にありがとう!
■ジャパメタ(Japanese Metal)にも強く興味を持ち始めた
Music Wave 84 コトのキッカケは1984年、NHKで放送された「MUSIC WAVE '84」だった。
EARTHSHAKER、MAKE-UP、アンルイス、44 MAGNUM、浜田麻里 というアーティストたちの映像がNHKで放送されることが驚きだった。 世間ではHard Rock/Heavy Meatalがメジャーになっているのか?という驚きも同時にあった。この時、EARTHSHAKERにインパクトを感じたが、まぁ、ハードロックの1バンド程度にしか考えていなく、LPを買ったり ライブに行ったりというくらいだった。しかし、1985年夏「新宿ツバキハウス」。鉄骨が胸に食い込みながら最前列で見たEARTHSHAKER、あれは凄かった。半身の体制だったこともあり右耳が3日間、ワ~ンワ~ンワ~ンと耳鳴りが 続いていて音が聞き取りにくくなっていた。そんな事も含めていろいろと衝撃的だった。
Show Carries On新宿ツバキハウスから2年が経過したころ、1枚のレコードを購入してみた。 「Show Carries On !/ANTHEM」(右)これだった。購入時点では、これも単なるハードロックアルバムの1枚としかとらえてなく購入することに違和感はなかったが、いざターンテーブルに載せて聞いてみると、思った以上の サウンドが流れてきた。"Japanese Power Metal"という触れ込みだったが、"Power Metak"というよりは"正統派Hard Rock"という感じに思えた。このレコードと合わせて同タイトルのVHSもリリースされ、しばらくは ヘヴィローテイションで見ていた。ただ、残念だったのは、このライブ盤を最後にVoの坂本英三が脱退してしまっていたのだ。
In The Beginningほぼ同時期ではあるが、1つのインディーズバンドに 興味を持ったのが「DANCER」だった。元Anthem(メジャーデビュー前に脱退)だった前田"トニー"敏仁と藤本泰司の二人が中心となりバンドが結成されたらしく、ポジション的には英米のハードロックの美味しいところをおさえたような メジャーに一番近いところにいるバンドだった。トニーのハイトーンヴォーカルがいささか苦しい感じがしていたが・・・。作品はEP1枚、miniLP1枚、FullLP1枚と限りなく少ないが、解散後にベストCDが2種類リリースされるなど、その実力と 人気が評価されるバンドだったことがうかがえる。miniLP収録の"Blue Fire"に至っては、その名曲さゆえにいくつかのジャパメタオムニバスCDにインディーズでありながらも収録されるという事実もあった。
■いかすバンド天国(通称:いか天)に突如登場したネズミ男
いか天:人間椅子 土曜日の夜、TBSで放送されていた「三宅裕司のいかすバンド天国」という毎週がアマチュアバンドの祭典のような番組。10バンドが登場してその週のチャンピオンを決めて前週までのチャンピオンと対決するというもの。まぁ、チャンピオンに なることも重要だが、それ以上に個性的なバンドが登場するのも見どころとなっていた。(逆に、すんなりと演奏しているバンドはスルーされてしまう感じ)すると番組には"ねずみ男"が登場した。ビックリしたが、そのサウンドは限りなくBLACK SABBATHを彷彿とするもので、最高のパフォーマンスだった。
桜の森の満開の下/人間椅子その後、彼らはめでたくBand Stock Club(いか天レーベル)よりミニアルバムを、メルダックからフルレンスアルバムをリリースすることができた。中でも2ndフルレンスアルバム「桜の森の満開の下」では意欲的な姿がアルバムから垣間見れた。 特にオープニングの2曲にイイ感じのノリノリ感が印象的なアルバムだ。
2009年「二十世紀葬送曲」がリリースされたが、ここで製作されたPV"幽霊列車"を久しぶりに見たが、そこには人間椅子らしさが十二分に詰まっていてうれしくなった。
■久しぶりにテレビに目をやると、カワイイ女の子が歌をうたっていた。
ときめきのプロローグ決して上手いわけではなかった。でも、その歌う姿が眩しく輝いていた。"オーマイゴッド!!だね"と 言う曲で1990年11月にリリースされた曲になるが、テレビで歌う姿がなんともかわいらしくて、久々のアイドル歌手に心奪われた瞬間である。ただ、徐々にアイドルが 登場するような歌番組が減り続け、最後のアイドルかなとも思っていた。(バラドルにはならないで!と思っていたが、今思えばバラドルの方がテレビの露出度が高く、 出続ける事ができたのかもしれないな。)
ひかる本人は歌にドラマにCMにと活躍日々が続いていたが、"大ヒット"と言える曲がなくどの曲もそこそこのヒットだったな。そんな中、 三菱エアコン霧ヶ峰のCMでドキッとする場面などで楽しませてくれていた。 そしてドラマで印象的だったのは、「パパと呼ばせて」(テレビ東京系)で、主演の他、主題歌も担当し、 "めぐり・あい"と言うシングルがリリースされた。この頃になると歌もこなれてきた感じで、 しっかりと歌えていると言う感じだ。(デビュー曲の"フィフティーン"と比べると ビックリするくらいだ)
2002年に結婚し若干芸能界から離れてしまうが、最近(2021.05.01)テレビ出演し、 今後は徐々に芸能界での仕事を増やして行くとのこと。若い頃の(いろんな意味で)ピチピチ感はないがしっとりした美人となっていた。いいねぇ。
■J-Rockへの誘い 点と点がつながり、線になった。
Strawberry Path日本での70年代の音楽は、それまで高い人気だったグループサウンズに成り代わり「ニューロック(Japanese Rock = "J-Rock")」が台頭していた。パワーハウス、 ブルース・クリエイション、紫、コンディション・グリーンなどのバンドが登場してきた。そのサウンドはリズム&ブルースやBritish Hard Rockなどに影響を受けた バンドが多かったようだ。
2000年頃、テレビで"メリー・ジェーン"にフォーカスした番組が放送された。当然、登場するのが "メリー・ジェーン"を最初に収録したアルバム「When The Raven Has Come To The Earth/STRAWBERRY PATH」(⇒)である。STRAWBERRY PATHは成毛滋と 角田ヒロ(後の"つのだ☆ひろ")の二人からなるバンドで、前身はGYPSY EYESというバンドで、なんとベースが柳譲治(のちの柳ジョージ)だったのだ (右のジャケットをクリックするとアルバム1曲目、柳譲治が歌う"I Gotta See My Gypsy Woman"が聞ける)。(柳は上記のパワーハウスに参加している!) これで2つの点がつながったことになる。違うルートから好きになったアーティストが元々は同じバンドに存在していたんだ!
■音蔵シリーズの登場。そしてハガクレレコードの紙ジャケシリーズの登場
LIVE ACT TULIP SUZURAN2 東芝EMIのExpressレーベルを中心にした、CD選書/Q盤の一環として1990年代後半にリリースされた「音蔵シリーズ」。多くのカタログが私のコレクションに 濃厚な厚みを持たせるようになっていった。シリーズはオリジナルLPのジャケットと歌詞カードを極力再現することをテーマにしたパッケージとして復刻している。 また、LPとしてリリースされたモノ以外に当時カセットテープでのみリリースされたものも復刻された。例えば「LIVE ACT TULIP IN SUZURAN 2」がそれにあたる。 (⇐ジャケットはカセットテープのパッケージを写真で撮ったもの)
音蔵シリーズではチューリップの全アルバムを入手すると言うところは言うまでもないが、当初から気になっていた(このページの最初の方にも登場した)
HARENCHI「フォーク・クルセイダーズ」も、この音蔵シリーズでめでたくCD化され、入手することが可能になっていた。60年代中盤の自分自身がオンタイムで感じ られなかった世界がオリジナルアルバムのがそのまま登場したことはとても嬉しかった。これをキッカケに、彼らの幻の名盤で自費制作盤の「HARENCHI」(⇒)に到達するのは そう難しい事ではなかった。
音蔵シリーズがあたったのかどうかは不明だが、感化されたかの如く、ハガクレレーベルは往年の名盤を紙ジャケットでリリースを始めた。前出の 「When The Raven Has Come To The Earth/STRAWBERRY PATH」を始め、FLIED EGG、BLUES CREATIONなど興味深いカタログとなっていた。
■エッ?! 中国にもHard Rockが存在しているんだ!! 中国揺滾の登場
光忙之神/黒豹1995年だった。船の旅で行き先は北京・大連。ふと入った土産物屋さんで見かけた1本のカセットテープ。黄色のベースにDavid Coverdale風なボーカルの姿が・・・限りなく怪しく思えた。まぁ、失敗して当然だと思いつつ購入してみた。(ネットで探しても そのカセットテープの姿は見つからないが・・・) まずはジャケットを良く見たらタイトルの中に「揺滾」の文字を発見するコトが出来たが・・・この時点では、この二文字がロックやハードロックを指すとは全く知らなかった。そして、旅の帰りの船上で聞くことができた。 (どうやって聞いたんだろうか?) その曲はいまだに忘れもしない「光芒之神/黒豹」(左のジャケットをクリックするとPVが見れる)であったのは紛れも無い事実だった。そこから「黒豹」について調べるようになった。 その内容についてはさんちゃん作成の「黒豹」にまとめてある。
■『浅草橋ヤング洋品店』の後継番組から飛び出してきた女性アイドルグループ
ベスト!モーニング娘。1今となっては、『浅草橋ヤング洋品店』ってなんだっけ?と思ってしまうが、通称『浅ヤン』。そして、その通称を受け継いだ『ASAYAN』というテレビ東京系の番組でのオーディションコーナーで結成された「モーニング娘。」。彼女たちの活躍を無視する訳には いかなかった。最初は、「まぁ、頑張ってるかな」と思ってたし、"L.O.V.E.マシーン"が流行っていたことも"ふ~ん"って感じだったが、4期(2000.04-)スタート時の石川梨華、吉澤ひとみ、辻希美、加護亜依が加入した時は、かなり印象的で目が離せなくなっていた。 特に辻加護の大ボケコンビが愛らしかった。当時リリースのシングルでいうと"ハッピーサマーウェディング"だったが、キャラよりも歌が目立ってたであろう石川梨華の歌での活躍は十分にアピールできていたと思うし、吉澤はその美貌とキャラで十分に人気を博して いた。気になる大ボケコンビは矢口真理率いる「ミニモニ」で大活躍となった。テレビも彼女たちが出てこない日がなくなったんじゃないかと思うくらいの人気だった。が、中澤裕子、安倍なつみの脱退でターニングポイントを迎えたグループも、ピークを迎えていた ように思えて、徐々にその座を受け渡すことになってしまう。
■テレビで突然現れた不思議なバンド名のJ-Popのバンド。期待通りの曲を発表してくれた。
いきものばかり衝撃的だった"いきものがかり"というバンド名。男二人女一人というあまりみない形態で、良質な音楽を利かせているなというのが第一印象だった。ただ、曲はイイが何か物足りなかったな。それがこの時なんだったのかはよくわからないが、何か足りなかった。 ポップな曲あり、しっとりバラードありでバラエティに富んだ曲たちに感動も覚えたが、10作目のシングル"ブルーバード"で「これだ!」と言う感覚を覚えた。
■はじめはサッシーがキッカケだったのに、ロケ番組を見ると気持ちは他のメンバーの方へ…
HKT48のおでかけ「笑っていいとも!」に出ていた頃の指原莉乃が大好きだった。あのダメダメ感がなんとも可愛く感じていた。(今となっては考えられないが…) サッシーが「笑っていいとも!」に出ていたのは2011-2014年なのでHKT48に移籍(2011年春)してからの出演だったようだ。 一方で2013年に「HKT48のおでかけ!」がスタートしている。この番組ではメンバーがロケに出てサッシーとフット後藤がトークを展開するという面白い番組だった。アイドルがAKB48のようなモーニング娘。のフォロアーばかりになり、その中で、キラリと いろんな意味で光っていたHKT48に心惹かれた。当然、その「おでかけ!」が貢献していたのは否定できない。中でも個人的には坂口理子、通称"りこぴ"に心奪われていた。番組内でAKBグループ総選挙の結果が放送されたときに 「りこぴのランクアップはおでかけ票だね」とあったが、まさにそんな感じだなと思った。りこぴ、「おでかけ!」で大活躍だったもんな。(「おでかけ!」は2017年6月223回で終了。後、2019年4月10日発売の「意思」についたDVD Type-A~Cで一時的に復活。)
HKT48 092彼女たちはコンスタントにシングルはリリースしていたが、アルバムがなかなかリリースされていなかった。2011年結成、2013年CDデビュー。4年後の2017年になって待望のアルバム「092」が2CD+2DVDでリリースされた。(そんなボリュームならもっと早く出せよ!ちなみに092は電話番号で福岡県福岡市の市外局番のようだ) シングル"スキ!スキ!スキップ!"から"キスは待つしかないのでしょうか?"までの10曲全てをCD-1に収録している。(右の092のジャケ写をクリックすると"桜、みんなで食べた"のPVにリンク) CD-2はアルバムTYPE-A~Dまで違った内容になっていて、DVDにはメンバー各人が短編映画の主演となっていて、どれを購入するかという楽しみもあった。